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「五つの名前」 |
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親がつけてくれたワイのほんまの名前は上園田徳市と言いまんねけど、皆さんは上園田という名字は言いにくいさかいに、「徳さん、徳さん」と呼んでくれはりまんね。うちの嫁はんまでが、他人を呼ぶみたいに、「徳さん、徳さん」と呼びまんね。これは他人が聞いたら、少し変な気持ちがしまっしゃろうと思います。でも慣れとは怖いもので、今は「徳さん」と呼ばれんと逆にワイが変な気持ちになりまんね。 若い時に大阪で商売をしていた時は役者を思い出させるような二枚目の名前でした。この名前は、会って初めてのお客さんをどうして笑わそうかと、苦労して考えた名前でんね。商談は笑いの中で決まると信じていたからです。初めてのお客さんから電話がかかってきますと「ハイ、男前の徳さんです」と言うと電話の向こうのお客さんは大笑いするのです。お客さんを笑わせたら、もうその商売は90%成立と思うています。だから、ワイは電話帳にも“室内装飾業「男前の徳さん」”と登録しましたんや。お蔭さんで、仰山儲けさせてもらいました。そして、ほんまに男前にもなったように思います。名は体を現すとはほんまでんなあ。 ロサンゼルスでは英語が出来ないから、大工になったさかいに、男前の徳さんではあきまへん。色男、金と力はなかりけりで、色男は大工仕事はできまへん。大工は四角い柱のような固くて、丈夫そうな男でないとあきまへん。ワイの名前も、四角、硬く、強く、大工と最後にくの字がつく、「大工の徳さん」とも呼ばれてきましたんや。お蔭で、ワイの作った、障子、茶室は三角も丸もおまへん、四角い障子と茶室ばかりです。 ところが「大工の徳さん」という名前、日本人のお客さんの多いロサンジェルスでは通用したが、シアトルへ引越ししたらアメリカ人のお客さんも増えたのでなかなか通用しまへん。アメリカ人はなかなか「大工の徳さん」と覚えてくれまへんのです。アメリカ人のお客さんや材木屋の人に自分の名前を覚えてもらえないのは難儀な事でした。だから「タム」とアメリカんネームをつけました。そしたら、アメリカ人が一発で覚えてくれるのです。郷に入れば郷に従えです。ワイは他に呼び名がまだまだおまんね。 よう考えてみたら、いろんな職業を変えるたんびに私は名前も変わりましたなあ。そして今度、病で倒れて、大工ができなくなり、エッセイの勉強をして本を出しましたら、本の名前が「フリムン徳さんの波瀾万丈記」」になりました。これは文芸社の編集の方が、私の本の内容から考え出した名前です。「フリムン」とは喜界島、奄美大島、沖縄方面の言葉で、“後先を考えないで行動をする人”“よく失敗する人”“憎めないばか”“あわてもの”“アホな事をする”と言う人の意味です。でもサンフランシスコのある大学院の教授は“フリムン”とは、アホよりもばかよりも古い日本語だと調べてくれました。フリムンには長い歴史があるのです。このフリムン徳さんにも、喜界島、大阪、パラグアイ、アメリカと渡り歩いた60年の中に、もがき苦しみ、泣き、笑いの人生に頭を振り絞って知恵を出し、身体でぶっつかって乗り越えてきたうなるような歴史がおます。 親がつけくれた名前、お客さんがつけてくれた名前、職業がつけてくれた名前、いろいろありましたが、フリムン徳さんが一番気に入っています。倒れるまで気を張り詰めて、がむしゃらに頑張ってきた人生ですから、ここらでフリムンになって、のんびりと、空に向かって口笛を吹きながら、自然の流れに逆らわず、我が道を行くで、「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を死ぬまでにはベストセラーにしたいと思うてまんね。 |
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「徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。 |
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