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「私が書いた母の遺言状」 |
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ダヤ(あんたは)私の死に目に会いに日本へ帰ってこなくてええ。世間には「親の死に目にも会えない人」と蔑んでみる人もおるだろうが、何もそんなことは気にせんでええ。死に目に会うよりも元気な時に会っているのだから、それで十分よ。親の死に目に会うという言葉は表面上の儀式に過ぎないと思う。私はただ、ダガ(あんたが)、人様に迷惑をかけないで、人様に好かれてこの世を生きて欲しい。昔から遠い身内より近くの他人と言う。 言葉は通じなくてもええ、近くの人と仲よう、楽しゅう暮らすのが一番だと思う。 ダー(あんたの〕力で自由に好きな国々を回って、やりたいことをして生活してきたのだから、言葉は通じなくても近所の人とは巧く付き合えるはず。子供も孫もアメリカにおるのだから、ダー好きなようにしたらええ。いつかダが死ぬ時はそこで死んだらええ。親の元を飛び立った鳥は親元へは戻ってこない。親の元へ戻って来なくてもええ。自分が一番長く住んだ所が死ぬ所と思うから。そこで燃え尽きて、永遠に眠ればええ。 長男のダ(あんた)と私はアメリカと日本と離れ離れで、一緒に住めなかったけれど、ダー気持は手に取るようにわかっている。私は腹を痛めて生んだ母親だもん。誰よりもダーことは知っているつもり。他人にどう思われようと、言われようと何も気にすることはない。これでええ。ままにならないのが人生と言うものや。あの世に行ったらままになれると思う。 ダが私をアメリカへ呼ぶたびに、「お母さんの死に目には会いには行かんよ」言っていたことはようわかる。ダヤ、少しええ格好しいのところがあるから、もしや、どん底に落ちて日本へ帰れないことを考えての言葉だったと思う。今はそれが現実になった。ダヤ、病で倒れた。有り金を使い果たした。家も未完成のままだ。日本人の誰もいないアメリカの山の中で、小さなおんぼろのトレイラーで身体障害者の年金で精一杯の生活をしている。 これはウヤフジ(ご先祖様)が、金ばかりが人生じゃない、貧乏しても金があった時以上に楽しい生活が出来るんだと教えてくれているんだと思う。また、人生を諦めたらあかん、人間は何歳になっても、たとえ病気になっても、身体のどこかを使って諦めずに頑張れば、夢がかなえられるということを教えてくれたと思う。病で倒れたお蔭で、ダヤ、エッセイや詩の勉強も出来た。もし、ダが健康でまともな生活をしていたら、本も書けなかったはず、友達との友情や妹弟愛も起こらなかったはず。病気になったお蔭で、貧乏になったお蔭で、同級生や妹弟がダーためにお金を出して本まで出版してくれた。 フリムンであるダー本が何千人もの人達を笑わせ、唸らせ、泣かせ、元気づけ、また、フリムン徳さんの応援団が日本にもアメリカにも出来た。さらに、フリムンソングまで出来た。これは、どんな大金持ちも、どんな大きな会社の社長も、どんな有名な人でもそう簡単にはできることではないと思う。これはダー努力と運と縁がそうさせたと思う。 ダーヨバ(あんたを)見守りながら目に見えない糸で皆さんをつないでくれたのは喜界島のウヤフジだと思う。その縁を作ったのはダー努力だよ。 私は、ダが小学生の頃は下の弟や妹の子守りを押し付けて、遊び盛りの子供のダーから友達と遊ぶ時間も勉強する時間さえも奪いとり、親として何もしてやれなかった。ダヤ、その悔しさから、弱いものいじめばかりをやるようになったと思う。その反動で中学時代は逆にいじめられて村八分にされて、中学校への登校下校は人目を避けて一人ぼっちで、朝は早く、帰りは遅く、遠回りしてよその村を通り家に帰る。たった13歳、14歳の子供がまるで警察に追われる犯罪人のような苦しい悲しい青春時代を過ごした。あの時代は貧しくて幼いダー助けがないと野良仕事ができなかったのよ。ダー小さい時の苦労を思い出すと私は涙が止らないのです。ほんとに済まなかったと思っています。今になって遅いけど、この親を許してね。 けれどもダヤ村八分によく耐えて、よく辛抱して、自分を反省して、子供ながら、「どうしたら、人に好かれるか、どうしたら友達が出来るか」を勉強して、よその村に友達ができた。それがきっかけで、大人になっても人に好かれる心理学を猛烈に勉強し、実行するために、とうとう仕事も数え切れないぐらい変わり、沢山のお客さん相手で人に好かれるコツをマスターしたと思う。そうして、苦労して形成された人柄が人に好かれるようになったと思う。 それから、ダヤ、もうひとつ感謝せんならんことがある。それは死んだお父さんにだ。私はダーヨバを産んだが、お父さんはダに徳市という立派な名前をつけてくれた。名は体を表す。そのとおりだった。その名前のとおり、「徳」を呼ぶ「市」になった。金は残さなかったが名を残した。本はダが死んでからも読み継がれるから。自分の思いどおり世界をまたにかけてやりたいことをして生きた長男のダーを私は誇りに思う。もう私もやがて89歳、あと数年の命と思う。だからここに私の思いを遺言として書いておきたい。くれぐれも妹弟 ハナサ、ハバサ、仲良く助け合って生きて下さい。では先に天国へ行って待っている。 ダヤ、もっと長生きして、人を喜ばして、車じゃなく、歩いて、ゆっくり、天国へ来たらええ。 母より。 * うえそのだ とくいち‐‐通称大工の徳さん。鹿児島県喜界島出身。大阪で商売、パラグアイで農業、アメリカで大工になる。体をこわし仕事が出来なくなり、文章の勉強を始める。北カリフォニアに在住。 |
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「徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。 |
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