「フリムン徳さんのアメリカ便り」第32号
「足と因縁」
                                    

2007.4.25

私の人生は手よりも足にまつわる話が多いようである。
21歳の頃の話である。東京小石川にあった、おばさんの小さな印刷屋でアルバ
イトをしていた。仕事が終わると仲間とすぐ近くの柳町商店街の居酒屋へ行っ
て、立ち飲みしながら、仕事の鬱憤を晴らすのが一番の楽しみであった。そこ
でいい加減に酔って、次に、おばさんの家の横にある寮の2階の部屋で思いっ
きり酔う。

 寮に住んでいるのは私と同じ喜界島・小野津村出身の若者が多かった。中学
を卒業すると多くの若者がこの東京文京石小川周辺の印刷屋に集団就職した。
東京の印刷業界では名の知れていた三晃印刷、慶昌堂、そして、その下請けの
小さな印刷屋や鉛版屋の多くを村出身の先輩が経営していた。三晃印刷の社長
さんは日本印刷組合の組合長をしたこともあり、島では相当な有名人だった。
慶昌堂の社長は私の親父の腹違いの兄弟である。印刷業で成功している先輩達
に続いて、経験を積んで自ら独立して印刷屋を経営している村出身の人は今で
も東京に仰山いる。

 島の方言しか話せない若者は、居酒屋の親父さんと話すにも気後れがして小
さくなっている。どっちがお客さんか分かりまへん。バーやキャバレーへは、
行く金もないが、金があったとしても言葉で姉ちゃんに笑われやせんかと思う
と恐くて行けんのや。フリムン徳さんは、英語に自信がないから、未だにアメ
リカのバーへ行けないでいるんや。

 酒屋で立ち飲みの後は、寮に引き上げて、方言で島の話や女友達の話を夜明
けまで語り合い、飲み続けた。小さな小野津村で家族みたいに育った若い仲間
にとって、言葉の通じない大東京で唯一言葉が通じるこの小さな部屋は安心で
きる居心地のいいところだった。酒が切れると誰かがポケットからグシャグシ
ャの紙幣を取り出す。一番若い奴を二人以上一緒に酒屋に行かせて酒を調達す
る。二人以上行かせるのは理由があった。まだ田舎から出てきたばかりの者に
とっては酒を買うのにも度胸がいって、一人では心許ないのや。日本語が通じ
ないときに二人してその苦境を乗り切れよという意味合いもあった。そして、
グテングテンになるまで酔うのや。酔いつぶれると誰かが面倒を見る。同じ村
同士や、当然や。

 いつものように島の若い奴が7,8人集まって飲んだ夜に私は大変なことを
してしまった。この夜の出来事は私が東京を離れて、大阪に行っても、4,5
年は誰にも話さなかった。このおしゃべりの俺が、こんだけ長く沈黙したのは、
私の歴史で最長かもしれない。

 その夜、私は飲みすぎて、いつ寝たか、どこに寝たかも記憶がなかった。
夜中、二階の部屋で寝ていた私は便所に行きたくなった。まだ酔いはさめてい
なかった。暗くて目も朦朧としながら、手探りで便所の戸を探し当てた。戸を
開けて、片足を便所に踏み入れた。私はその1秒後に空気中を抜けて、階下の
アスファルトの道に片足で立った覚えがあった。「徳さん、便所に入ったのが、
何で道に片足で立っていんのや」、「そうや、俺は便所に入るために二階から
下の道へ飛び降りたんや」、「二階からの飛び降り自殺とはちゃいまんね」。
もうその後は覚えていない。

 足の痛みで目が覚めたのは、朝方、二階の布団の中だった。
目が覚めた途端に、頭の芯まで突き刺さるような痛みが右足首踵から走る。も
う痛くてたまらない。そーっと、足元の布団をまくってみると、右足が象の足
のように腫れているではないか。少し身動きすることでも痛い。もう、布団か
ら起きることもできない。痛みの中でぼんやりと、夕べのことが思い出された。
便所の戸と思って開けたのは二階の窓のガラス戸だったのだ。足を踏み入れた
便所は、空中だった。下の道路に右足で立ったのはかすかに覚えているが、そ
の後、どのようにして二階の部屋の布団にもぐりこんだかは覚えていない。

 まだ誰も、私が、二階から落ちたことは気づいていなかった。私自身も落ち
た確証を見つけていなかった。朝一番に私の布団に来た奴に、「夕べは飲みす
ぎて、そこの道のコンクリート塀を足で思い切り蹴ったんがこの始末や」
と言ってごまかした。とうとう医者にも行かないで2週間ぐらい布団に寝たま
までいた。

 私の足にまつわる思い出話はまだある。夜間高校生の頃、電通の運動会のマ
ラソンを素足で走り2位に入賞したが、アスファルトの熱さで足が腫れて歩け
なくなった。また、小さい頃、板に打ち込まれた釘を踏んで、足が腫れたこと
は何回もあった。小学5年生の頃、馬に鋤をつけて畑を耕しながら、危うく、
鋤で、足のすねを切りそうになったこともある。でもなんとなく大事にならな
くてすんでいる。「ウヤフジが護ってくれていんのや」と喜界島のオメトおば
あさんなら言う筈や

 アメリカに来てからは、足が動かなくなった。ビールの飲みすぎで痛風、関
節炎になって両足の膝が象の足みたいに何回も腫れた。とうとう、身体障害者
になってしもうた。大工仕事ができなくなってしもうた。
 自分の足だけではない。喜界島で私は小さい頃、もの作りが好きだったから、
箱みたいなのを作ったり、潰したりしていた。釘のついたままの板をそこらに
放ったらかしにし、素足の美代ねえがその釘のついた板を踏んで、化膿させて
苦しませたこともあった。

 私の親父も、昔、サトウキビの刈り入れの一番忙しい時期に足に釘を踏んで、
その年はとうとう、収入源である砂糖つくりができなかったことを覚えている。
その時のお袋の怒っていた顔が今でも思い出される。親父はわざと釘を踏んだ
のでもないのに、どうして、お袋がそうかんかんに怒ったか分からなかった。
今思うとあの当時お袋と親父はあまり仲がよくなかったような気がする。

 私は父方のおじいさんは知らないが、生前、彼も片足が悪くてビッコを引い
ていたという。やはり前世の何かの因縁だろうか。それにしても、私の場合、
人間様だけでなく、パラグアイで飼った豚までもが、後ろ足の片方がビッコだ
った。その豚から、生まれた5匹の子豚の何匹かもやはり後ろ足の片方がビッ
コだった。私は豚を肉として売る前に、豚のビッコの足を、包丁で切り裂いて、
詳しく、調べてみた。そしたら、どのビッコの豚の足も、同じところの小さな
針ほどの神経が黒くなって固まっていた。どうして、私の飼った親豚も子豚も、
親父も、私も、おじいさんも、足にまつわる病気が多いのだろうか。これを前
世の因縁だろうか。

 小さい頃、親父からよく聞かされていた話を思い出した。
「種子島鉄砲ができた頃、よその村から侵入者があったら、うちの祖先は鉄砲
を持って、追っ払っていたらしい。でも、その侵入者を射殺したらかわいそう
やと思い、足をめがけて、鉄砲を放ったそうや」。

 足をめがけて鉄砲を撃ったが、鉄砲の引き金を引いたのは手や。悪いのは手
やないのか。
                           フリムン徳さん

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