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アメリカから喜界島までは遠い。ロスから大阪まで飛び、大阪から鹿児島まで飛び、鹿児島から喜界島へ飛ぶ。3回も飛行機を乗り換える。アメリカ・大阪間の航空運賃は大阪・喜界島間の航空運賃の半分だ。日本の国内航空運賃は高いでんなあ。 嫁はんの84歳の母親は喜界島でお墓を守りながら1人で生活している。 足が不自由で車椅子の生活。車で10分ぐらいのところに次女や次男が住んでいるが気を使って、子供達の手をわずらわさない。時々ヘルパーの世話になっている。長女である私の嫁はんは義母を気使って、アメリカから電話をするが、「電話賃が高い」と言って義母はすぐに電話を切る。私も嫁はんも義母のアメリカ見物以来、義母とは20年近く会っていない。 私は4月の初旬、1週間毎晩続けて義母の夢を見た。何かがあったに違いないと気にしていたら、4月14日の夕方に「義母が亡くなった」という電話が喜界島から入った。やはり義母は気がかりだった私達夫婦に夢で会いに来てくれていたのだ。嫁はんは父の葬式にも行けなかった。母の葬式だけは行かしてやりたかった。でも、3年前に病で倒れて身体障害者の年金で、モントレーの山の中でおんぼろのトレーラーで生活をしている私達には喜界島へ帰る切符代もない。「俺は親の葬式に嫁はんを返してやれないこの世の最低の男だ」、「今まで好き勝ってな事をした人生に罰が当ったんだ」と涙ながらに自分の人生を悔やむしかなかった。 その夜、義母の訃報を娘のマキコに伝えた。思いもよらない事に、「飛行機の切符は私が買ってあげるから葬式に喜界島へ帰りなさい。急いで。」とマキコが夢みたいな事を言うではないか。今まで散々親を泣かした、心配させたあの娘がよ。「そんな子供でも歳をとったら、まともになる、あなたの子供を信じなさい」です。異変が起きたみたいだった。3時間前の悔し涙と悲し涙は嬉し涙になった。悔しい色の涙、悲しい色の涙、うれしい色の涙と、虹色の涙が私の頬を濡らした。やはり義母が助けてくれたのだ。義母はどうしても自分の長女に会いたいのだ。 さあ、えらいこっちゃ。大急ぎで航空券の手配だ。JALの日本語案内へ予約の電話を入れても「今しばらくお待ち下さい」ばかりでらちがあかない。そこでマキコが英語案内でやるとすぐに出てきてすんなりと決まった。アメリカの日本の航空会社は日本語案内はビジーで、英語案内は暇なのだ。翌日の4月15日午後1時55分ロス発のJALに乗れば喜界島の義母の葬式に間に合いそうだ。マキコが自分の銀行の貯金全部をおろしてくれた。さらに飛行機の切符はビザで買ってくれた。また虹色の涙が出てきた。こんな気持のいいことがめったにあるかいな。こんないい気持ちをどこかにとって永久保存しておきたい。これで、お金の件と切符の件は解決した。 ところがもっと深刻な問題が起きた。嫁はんのパスポートの期限が切れているのや。どないにしよう。もう領事館に当って砕けるしかない。明日の飛行機に乗せんならん。いちかばちかや。先に進むしかない。嫁はんは旅仕度にとりかかった。終わったのが夜中の1時過ぎ。すぐ、夜を徹してロス近くのバーバンクのマキコの家へ車を飛ばした。私の住むブラッドレーから急いでも4時間かかる。マキコの家に着く頃には明るくなっているだろう。 マキコがインターネットで朝8時に開く写真屋を探してあった。パスポート用の写真を2枚撮り、運良く3週間前に取り寄せてあった戸籍抄本を持って、マキコの運転する車でロスの領事館へ駆けこんだ。9時半だ。空港カウンターに12時までには着かなければならない。パスポートの再発行に許される時間は1時間半しかない。以前、領事館に問い合わせた時は、遠方からきた人には4時間〜5時間待てば発行してくれると言っていた。急いだが間に合わなかったか、やっぱりアカンか。 私の知っている領事館は、サービスは悪く、鈍くて、待たせる、怖いところなのだ。恐る恐る、窓口の女性に義母の葬式に間に合いたい事を告げてパスポートの再発行をお願いした。「なんとかやってみましょう」という神様のお告げみたいな言葉が返ってきた。とたんにその女性が女優さんよりもきれいな優しい別嬪さんに見えた。不思議なものです。人間諦めたらアカンネン。またしても奇跡が起きましたんや。 臨時パスポートの再発行の申請書をもらい、ロビーのカウンターで見本を見ながら書きこむ。でも、見本を見てもわからないややこしいところが沢山ある。時間は過ぎる、飛行機に間に合うか、焦ってくる。難渋しているのが見えたのか、ロビーで書類作成の手助けをしてくれる人がやってきて丁寧に教えてくれた。こんなに、ありがたい事はない。うれしくてたまらなかった。最後に嫁はんがサインをした。サインの中に「ウエソノダ」を見つけたその男性は「ウエソノダ徳市」のエッセイをTVファン誌でよく読んでいると言うではないか。世の中悪いことはできまへんなあ。またしても義母は偶然を起こしてくれたのだ。 書いた書類を先ほどの窓口の女性に渡すと、「順序は逆ですけど、審査する間に、この書類を書いてください」ともう1つの書類を先回りして書かせてくれる。1分でも早くと、頭を360度回転させてのサービス振りに心が揺さぶられた。ついに30分でパスポートを再発行をしてくれた。5時間と比べたら信じられない速さだ。再発行されたパスポートを手にして、領事館のドアを出たあの時のうれしい気持ち、言葉には言い表せませんでした。義母の死の悲しみも忘れてルンルン気分でした。 おかげで嫁はんは1時55分のJALに間に合った。ただ、やっと喜界島にたどり着いた時には、葬式は終わっていた。ところが、葬式は終わっても、死んだ母親はまだ娘の帰りを待っていた。火葬場で待っていたのだ。嫁はんは喜界島空港からタクシーで母親の待っている火葬場へ息せき切って駆けつけ、きれいに死化粧した母親に最後の対面を果たした。「死んでもアメリカから帰ってくる娘を待っていた母親」と島の人達は涙を流して感激してくれた。嫁はんも電話の向こうで泣いていた。お金で助けてくれたマキコ、パスポートの再発行で助けてくれた領事館の人達、涙を流して感激してくれた喜界島の人達、死んでもアメリカの娘を待ちつづけた義母さん。次々と私の脳裏に現れ、私の頬にはまたしても大粒の虹色の涙が流れた。 フリムン徳さん |
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「徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。 |
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