「フリムン徳さんアメリカ便り」(第6号)「思い出のアーケディア」
                                    

2004.12.21
フリムン徳さん応援団の皆さん、今年も後わずかになりました。今年は私にとっ
ては忘れることの出来ない年でした。皆さんのお蔭で、「フリムン徳さんの波瀾万丈
記」が波瀾を起して第3版増刷までこぎつけました。無名の人の本が増刷されるのは
奇跡を起こすに等しいほど難しいと聞きました。それをフリムン応援団は必死になっ
て、第3版増刷まで成し遂げました。やればできる、諦めたらあかんねんをものにし
ました。アメリカのロスに応援団の支部もできました。コンピュータ・ネット上の応
援団が日本で70名、ロスで50名、合計で120名になりました。アメリカの日系人の社
会では、新刊書は100冊売れたらええ方だと聞きましたが、フリムンの本はロス支部
の金子さん、TVファンの社長さんのお蔭でアメリカで300冊近く売れました。応援団
の皆さんのお蔭です。新しい年も笑って、無責任になって、好きなことをして、フリ
ムンになろうではありませんか。皆さん、ほんまに、おおきに、アイガトウ様。  
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「思い出のアーケディア」           フリムン徳さん

   ロサンゼルスから東へ車でおよそ30分のところにアーケイデイアという町があ
る。ロスの住宅地よりは敷地が広くゆったりとしている。かえでの並木通りが多く、
秋には深紅の紅葉が、焚き火のように通る人の心を赤く焦がしてくれる。風情のある
いい町だ。12年前にシアトルへ引っ越すまでの12年間、私はこのアーケデイアの
町に住んでいた。私の生涯でも思い出の多い町だ。娘は小学校、中学校、高校まで、
息子は小学校、中学校までこの町で学校に通った。年に1度、同じストリートの家族
同士が家の前のストリートに繰り出してするストリートバーべキューも楽しかった。
 
  私の家の敷地はおよそ500坪ぐらいあったと思う。隣近所もだいたい同じ大き
さの敷地。ほとんどの隣近所が裏庭には大きなプールがあったが、うちだけにはな
かった。だから、息子は2軒隣のEDDYの家のプールでよく泳がしてもらっていた。息
子が泳ぎを覚えたのはEDDYの家のプールだった。この通りに東洋人として初めて移っ
て来たのが私の家族だった。一軒の黒人の医者の家族を除いて周りは全部白人の家族
だった。人種差別を受けるんじゃないかと内心警戒していたが、それは取り越し苦労
というものだった。逆に、皆さんに親切にしてもらった。引越しの初日には隣の人が
手伝いにも来てくれた。

 特に親しく付き合ったのはリタイヤーしたEDDYとオデッサの夫婦だった。あまり
英語のわからなかった初美であったが、オデッサとはバラとランの花の趣味が合い、
英語じゃなく花言葉でしゃべって、意思疎通は十分だったようだ。二人は競走するみ
たいに花を増やしていた。日本からお客さんが来ると、彼らの家に案内し、これがア
メリカ人の住まいだと、家の内外を見せてもらった。オデッサはドイツ系の優しそう
な白人婦人で、家の中はいつも掃除が行き届いていて、家具も絨毯もカーテンも新品
のようで気持よかった。無駄な飾りはなく質素で、ほんまに、質素の美をかもし出す
部屋の飾り付けが上手だった。彼女は、ルネッサンス風の椅子の張替えも自分で生地
を買ってきてやる。その出来映えはプロがやったとしか思えない。

  EDDYは、見上げるほど背が高くて、これも優しそうな人だ。夫婦は似るものだろ
うか。彼の背の高いのには理由がある。元プロのバスケットの選手だったのだ。今、
プロのバスケットで活躍しているKOBE選手にも何度かコーチしたことがあると言って
いた。リタイヤーした彼の趣味は毎日のゴルフだった。ハンディもすごい。絶頂の時
はハンディ2だったのだ。バスケットで鍛えた運動神経の固まりみたいな長身の身体
でクラブを振る姿は、写真に撮りたいぐらいに鮮やかだ。私を生まれて初めてゴルフ
に連れていったのも彼だ。

 フリムン徳さん応援団の友田英助家族がうちへ来た時もEDDYの家へ連れて行っ
た。彼の目の前でゴルフスイングをした英助にベリー・グッドとか言っていたが、
EDDYと違って英助のスコアはダメなようだ。皮肉なことにその時に英助には同じEDDY
と言う名前が付いていたのだ。というのは、英助からおもろい提案があった。会社の
部下へのアメリカ土産に彼らのアメリカンネームをつけて持っていきたいと言う。う
ちの娘が、皆さんのアメリカンネームを考えてくれた。英助には英助のエとEDDYのエ
が同じなので EDDY TOMODAとつけたのだ。今はフリムンEDDYと余分にフリムンまでついている。

 去年10数年振りに嫁はんと二人でもと住んでいた我が家の辺りを覗きに行った。
ついでに、EDDYとオデッサの家に寄ってみた。二人は涙を流して、私達二人を抱きし
めて、再会を喜んでくれた。二人とも容姿は10数年前と変わってなかったが、歳を
聞くとやはり10数年歳をとっていた。オデッサが91歳、EDDYが88歳とのこと。
EDDYは目が悪く車の運転が出来ない。91歳のオデッサが運転をして買い物やらをし
ていると聞いて、嬉しいやら、涙ぐましいやら、心配やら複雑な気持ちになった。
EDDYは目の前の人の輪郭がわかるくらいしか見えないらしい。でも、家の中の絨毯の
上で、黄色いゴルフボールでパットの稽古をしていた。この目の不自由なEDDY、黄色
いタマは見えるのでまだ週に2回はゴルフ場でゴルフをしていると言う。好きなことは
心の目で見えるのだろう。

 このEDDY達に困ったことが起きている。ほとんど白人の家族だった隣近所が全部
チャイネィーズの家族に変わったとのこと。アーケデイアの住民の80%以上はチャイ
ネィーズになっているらしい。アーケディアの宅地は一区画が広いから、少々値が張
る。でも、チャイネィーズはキャッシュで買い上げて、少し古いと、その家を取り壊
して、御殿みたいな家を建てる。どうして、チャイネィーズは金持ちが多いのだろ
う。これは今のアメリカ人の驚きのひとつだ。
 元の私の家を買った中国人は5台の車庫を建築中で、朝7時から夜7時まで、工事
の騒音がひどい。EDDYは市役所の建築課へ相談に行った。建築課で働いている6人
の職員の内5人が中国系アメリカ人だったとEDDYは嘆いていた。台湾系の中国人はい
い学校の近くに集まってくる。アーケイディア・ハイスクールは台湾人にとってア
メリカで一番いい学校だそうだ。

 EDDYは嘆く。中国人は彼から先に挨拶をしても挨拶を返してくれる人が少ないそ
うだ。親しい徳さん夫婦と同じような顔、同じような皮膚の色をしているのに徳さん
夫婦とは違うようだ。どこかへ引っ越したいが、もう歳だからねえと、元気のない声
で言った。白人が新しい町を作り、そこへ黒人が入り、日本人が入り、メキシカンが
入り、東洋人が入り込む。白人はまた、郊外へ引っ越して新しい町を作る、これがア
メリカの歴史だとEDDYは言う。
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フリムン徳さん 

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徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。

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 TEL:03-3817-0711 FAX:03-3818-5969
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