「志保やの大将」
ロスアンジェルスから西へ車で40分のところに、あの有名なマイケルジャ
クソンが元住んでいた街、エンシーノがある。フリムン徳さんはこの街を東西
に貫くベンチュ−ラ・ブルバードという大きな通りが好きである。レストラン
が沢山ある、オフィス街でもある。昼時になると、人通りが多くなる。別嬪さ
んが通るたびにフリムン徳さんの鼻がクンクン鳴る、胸がピクピクする。材木
屋で材木の匂いばかりを嗅いでいるフリムン徳さんにはたまらん。甘酸っぱい
香水の匂い、石鹸の匂いのような清潔感の漂う香水の匂いが流れてきて、消え
たと思ったら、また流れてくる。真っ昼間に昔懐かしい大阪の夜の北新地、ミ
ナミを思い出させてくれる。この通りを“香水ブルバード”と言いたいぐらい
である。
この通りに、フリムン徳さんの元親友の日本食レストランがあった。フリム
ン徳さんは彼のことを”志保やの大将”と呼んでいた。店の名前が”志保や”
だからである。彼はオーナーシェフだが、大工仕事が趣味であったから、頻繁
に店の改造をした。小さな改造は一人でやるが、大改造はいつもフリムン徳さ
んと二人でやった。店の正面入り口が“香水ブルバード”に面していた。外壁
の塗り替え、張り替え、玄関ドアの取り替えの時は香水の匂い付きの現場での
仕事となる。ええ大工仕事ができるはずである。歩道に流れる別嬪さんの香水
の匂いが疲れを癒やしてくれた。
“香水ブルバード”も変わっているが、彼のレストランも変わっている。店
に入ると、テーブルには醤油や、塩、胡椒が置いてない。普通のレストランで
はないと一目でわかる。彼は自分の作る料理に自信を持っていた。いや、持ち
すぎていたかもしれない。
味が第一、第二がお客さんと、考えていたような節もある。
お客さんが、
「醤油をください、塩をください」
と言うと、ホステスさんが、「ああ、またか」と言う顔で、行く。
「うちの料理はうちの味がちゃんとつけてあります。塩も、醤油もかける必要
はありません」
と説明するのである。
また、寿司は握ってから、5分か10分以内に食べるものといって、絶対に出
前はしなかった。
彼の言うとおりと思う。
お客さんはその店の味がおいしいと思って、その店の味を食べに行くはずなの
に、出されてきた料理に「味が薄い」とか言って、醤油や塩をかけて、自分の
味にして食べる。それなら、家で、自分で作って食べたら良いのである。
アメリカ人は自分が中心の人間が多いから、「醤油をくれ、くれない」で、彼
はたまにお客さんと言い争いになった。ある時はそんなことで、お客さんにピ
ストルを向けられたこともあった。何とか収まり、お客さんが冷静になって、
「今、女房と言い争いをしてきて、苛立っていたところだ」と弁明したらしい。
醤油を出す、出さぬで、ピストルを向けられた料理人、聞いたことがない。
カリフォニアで初めて会席料理を出したのは彼であったと聞いたことがある。
その昔、今の天皇陛下のご成婚の料理を、彼は、10日間ぶっ通しで作ったと
いう。店の中の壁に、宮内庁からの感謝状が、静かにかけられてあった。元親
友と書いたのは、彼は10数年前に59歳の若さで、動脈破裂で今はもうこの
世にいなくなっているからである。あれだけ、料理にうるさかった彼が車で3
時間以上もかけて、私の家へ寿司を持ってきてくれた。それはちょうど彼が死
ぬ2週間前だった。
思えば、フリムン徳さんが彼と一緒に彼の店の改造をしたのは30数年前の
話である。フリムン徳さんがアメリカへ来て、見よう見まねで覚えた大工で独
立して間もない頃である。”すし屋のカウンターの角は取る”と教えてもらっ
たのも彼からである。あれからフリムン徳さんは、ロスアンジェルス、シアト
ル、ニューヨークと沢山のすし屋の改造工事で飯を食ってきた。彼のお陰であ
る。だから彼の写真を小さな額縁に入れて、寝室の箪笥の上に立てかけてある。
去年の春、30数年前のあの胸のピクピクする甘酸っぱい匂いに,フリムン
徳さんは強力に引き込まれた。それがあの“香水ブルバード”ではない、フリ
ムン徳さんの土地の中での話である。土地の入り口から、山の中腹に立つ家の
玄関まで、200メートル近いドライブウェイがある。
このドライブウェイに沿って、約120本の苗木を植えていた時である。ど
こからともなく、あの忘れられない”胸がピクピクする”匂いが強力に流れて
きたのである。思わず、その匂いに吸い寄せられて行くと、そこには、乾燥地
帯に生える、草でもない潅木でもない植物があった。ドライブウェイから草む
らに1メートルほど入ったところにポツンと1本生えている。これが匂いの元
か。背丈は1メートル以下、根元から直接に何10本もの小さな幹が出て、ひ
とつの丸い固まりになっている。そして、よく見るとポツン、ポツンと数十メ
ートルの範囲に9本も生えている。大きいもので直径は2メートルぐらい。何
という名前なんだろう。どのように調べたらいいのだろうか。
ドライブウェイ沿いに苗木を植えるどころではなくなった。一番大きな株を
残して、8つの株の周りをつるはしとスコップで深く掘り下げて、根っこに土
をつけたまま、大事に、大事に、掘り起こした。家から少し突き出た玄関の両
横に2本ずつと、残る4本は家の周りに植えた。もちろん、掘り起こした土を
そのまま使った。春が楽しみである。「春よ、来い、はーやく来い」である。
志保やの大将の天国からの贈り物である。元大工のフリムン徳さんの汗の匂い
がしていた家が、甘酸っぱい香水の匂いのする、胸のピクピクする名物の家に
なりそうである。 フリムン徳さん