我らが「フリムン徳さん」のページです(13.9.17更新)

 
 徳さんの故郷・小野津漁港の船溜まり(03.10.20)

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「フリムン徳さんアメリカ便り」
    徳さんの「アメリカ便り大変好評中です。
宜しく御願い致します。(12.3.8)

フリムン徳さんの
帰国講演会

 こちらです

06.11.26


喜界島・小野津出身の上園田
(うえそのだ)徳市さんの怒濤の半世紀を、エッセーにして本にまとめました。
小気味よく素直に読める文章です、
文芸社からの発行です。

「 フリムン徳さんの ”ふりむんえっせー”」
(途中、私(村山)の都合で中断していますが順次追加しています)
諦めたらアカンねん「フリムン徳さんの波瀾万丈記」の巻頭詩より)

「波瀾万丈記」以降の
エッセー集(題名をクリック)

喜界島で育ちました
イジメをやりましたら イジメに遭いました
人に好かれるための心理学を勉強しました
息子の名前はデールと アメリカの心理学者の名前を付けました
心理学の実践のために生命保険の外交員になりました
英語の勉強を猛烈にしました
おでん屋 "力道山"を開業して切符代を稼ぎました
片道切符でアメリカへ貨物船で無銭的旅行にいきました
すぐに金がなくなり クリスチャンになって宣教師の弟子になりました
日本で絨毯やカーテンは将来性があると 発見しました
黒人の女性と恋もしました
黒く鋼鉄みたいに堅く見える皮膚は豆腐のように柔らかでした
日本に戻ってタタキ売りをしました

手相占い師になりました
タタキ売りを経験した手相占い師は 大声でわめきそうになりました
絨毯カーテン屋をやりました
家具屋も一緒にやりました
儲けました
4軒一棟の文化住宅も買いました
25回以上の見合いもしました
見合いは時間と金の無駄が多いと思いました
結婚は縁だと思いました
引っ越しの運送屋もやりました 夜逃げの引っ越しもやってあげました
ヤクザに3回脅されましたので ヤクザの啖呵の切り方を勉強しました
威張った男にヤクザの真似をして啖呵を切ったら 彼は子分にしてくれと家へ来ました
パラグアイのジャングルへ移民しました
2歳の娘が犬とばかり遊んで 骨をしゃぶるようになりました
それでアメリカに移りました 英語に苦労しています
アメリカ人にパラグアイで英語の先生をしていたと言うと 腹を抱えて笑われました
ロスアンジェルスで見よう見まねで大工を覚えました
裏千家の人の茶室をいっぱいつくりました 床柱もだいぶつくりました
茶道具もつくりました 漆みたいに艶を出すのに苦労しました
ついに艶が出せました
良く光ります 水に強いです 傷つきにくいです
それは車のペイントです
名付けました "アメリカ漆"
スポーケンの博物館の有名な徳島人形のケースもつくりました
息子は言いました
人々は徳島人形を見に行きますが 人形ケースを見に行くのはパパだけです
寿司屋も障子もいっぱいつくりました
電気の配線工事も覚えました 水道工事も覚えました
鉄格子の溶接屋もやりました 泥棒が増えて大工の仕事がなくなったからです
アメリカで大工を26年間やりました
ビールも沢山飲みました
あまりにも沢山の空き缶を売りに行ったら プロの空き缶拾いに間違えられました
痛風になって大工ができなくなりました
足が痛い
サンフランシスコでバスガイドをやりました
ここは野茂選手がアメリカで第一球を投げた球場だと説明してやりました
アホらしいので辞めて車で日本人相手の行商をやりました
ダメでした
また痛風になり金が無くなったので日本に帰ろうかと妻に言ったら反対されました
昔 買ってあった山の中の土地(32000坪)に二人で家を建て始めました
電柱も二人で立てました 井戸は井戸屋に掘らせました 7000ドルかかりました
高血圧で強制入院させられました
仕事ができない 家は未完成のまま 収入がない
今度は生きる望みがなくなりました
どないしよう 死のうか
お客さん 叔母さん 兄弟 娘息子が助けてくれました
なんとか生き延びることができました
人の情けは有り難い
オヤフジ(ご先祖)のお陰
まだ足が痛い
でも私はまだ生きている
アキラメテ タマルカ 死んでたまるか
私は59歳
今度はエッセーの勉強をしました
サンフランシスコの日本語新聞に応募したら当選しました
そのことが鹿児島の南日本新聞にも載りました
それから毎日 仕事と思ってエッセーの勉強をしています
エッセーを書くことは楽しい
うまく掛けないときは頭を掻きます
商売よりも 大工の仕事よりも私に向いているように思います
私は やっと好きな仕事を見つけたようです
助けてもらった人にお返しをせにゃなりません
私は義理と人情を守りたい
アサラメタラ アカンネン
死んでもアキラメタラ アカンネン
殺されてもアキラメタラ アカンネン
そしたら喜界島のウヤフジ(ご先祖)が守ってくれます

「アメリカ便り」(第83号)
 「前歯の一本欠けた写真」

「アメリカ便り」(第82号)
 「前歯の一本欠けた写真」

「アメリカ便り」(第81号)
 「変わり行くパソロブレスの町」

「アメリカ便り」(第80号)
 「百の台会東京大会スピーチ」

「アメリカ便り」(第79号)
 「2日間の天国旅行」

「アメリカ便り」(第78号)
 「この世の楽園」

「アメリカ便り」(第77号)
 「近頃の日本語はあきまへんなあ」

「アメリカ便り」(第76号)
 「夜に光る道」

「アメリカ便り」(第75号)
 「見たことのない小包」

「アメリカ便り」(第74号)
 「日本人の恥と信用問題」

「アメリカ便り」(第73号)
 「志保やの大将」

「アメリカ便り」(第72号)
 「狙い続けて8年」

「アメリカ便り」(第71号)
  「ワインブームはキリスト様が創っている」

「アメリカ便り」(第70号)
  「フリムン野菜」

「アメリカ便り」(第69号)
  「タトゥー」

「アメリカ便り」(第68号)
  「世界大沈没」

「アメリカ便り」(第67号)
  「坂嶺村のレディーはアメリカ人教会のボス」

「アメリカ便り」(第41号)
  エッセイ 『ほんまに、そんなこと、あんのかいな』

「アメリカ便り」(第40号)
  エッセイ 『竹内社長様、有り難う。』

「アメリカ便り」(第39号)
  「手打ち蕎麦加州独断流 許状

「アメリカ便り」(第38号)
  「サンフランシスコの夜と昼と裏と表

「アメリカ便り」(第37号)
  「サンフランシスコの夜と昼と裏と表

「アメリカ便り」(第36号)
  「監査役

「アメリカ便り」(第35号)
  「皆さんに支えられて3年!

「アメリカ便り」(第34号)
  「二日酔い」

「アメリカ便り」(第32号)
  「足と因縁

「アメリカ便り」(第31号)
  「男の名前で生きていきます」

「アメリカ便り」(第29号)
  「ワテはフリムン徳さんの嫁はんでおます」

「アメリカ便り」(第28号)
  「エッセイ『43年振りの再会』」

「アメリカ便り」(第27号)
  「フリムン徳さんの帰国スピーチ」

「アメリカ便り」(第26号)
  「暑中お見舞い、冷房完備」

「アメリカ便り」(第25号)
  「求む、ネタさん」

「アメリカ便り」(第24号)

「アメリカ便り」(第23号)

「アメリカ便り」(第22号)

「アメリカ便り」(第21号)

「アメリカ便り」(第20号)

「アメリカ便り」(第16号)

「アメリカ便り」(第15号)

「アメリカ便り」(第14号)

「アメリカ便り」(第13号)

「アメリカ便り」(第12号)

「アメリカ便り」(第11号)

「アメリカ便り」(第9号)

「アメリカ便り」(第8号)

「アメリカ便り」(第7号)

「アメリカ便り」(第6号)

「アメリカ便り」(第5号)

「アメリカ便り」(第4号)

「アメリカ便り」(第3号)

「フリムン徳さんのアメリカ便り」(第3号)、以下は略して「アメリカ便り」と致します。

私が書いた母の遺言状06.8.28

指輪のない指 06.8.27

「フリムン柿8年」 06.7.17

「五つの名前」 06.7.17    

鏡の部屋  06.7.17

キリスト様と仏様のお近づきの杯

当原ミツヨさんへのラブレター06.4.20

詩 「社長交代」06.3.24

「雪どー、雪どー」06.3.14

「強く、たくましく」06.2.1

「徳さん」の出身地の鹿児島県大島郡喜界島の「小野津集落」は昔からの港でした。集落民の性格は豪放で発展性があり常に島外に目が向いていたようです。島外においては郷友会(郷土出身者の集い)の活動も盛んだということです。私も何故か縁あって知り合いが多いです。結婚式などにもお呼ばれしました。

『フリムン徳さんの波瀾万丈記』(文芸社)の注文は、書店か、または、
"フリムン徳さん応援団#友田英助(tel/fax 042-632-7088)まで。1,260円(送料・税込み)
此方の画像及び文章は制作者の許可を頂いて掲載していますのでご利用はご遠慮下さい。03.10.29

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